CHANGE
矢田 昇平(ヤダ ショウヘイ)
ビジョン創造スクール1期生
株式会社GYAO
「Change・・・」数年前にアメリカのリーダーであるバラク・オバマが数万人を前に演説で発したこの言葉が今でも印象的である。何故なら、日本語のそれでは感じた事がない何かを感じたから、、、
この貴重なリレーのバトンを送っていただいた岡津さんの記事を引用させて頂くと“人類は今「史上稀に見るレベルの歴史的転換点」に置かれている” 長い歴史の中において誕生間もないコンピュータによる「享受された変化」はここ最近、急階段を駆け上がるようなもので、ある種異常なほどでもある。私は生まれていなかったので体感は出来ないが、40年前に5.5トンもあったという当時最先端の初期スーパーコンピュータの数十倍速いコンピュータである“iPhone”を子供から大人までもが片手で持ち歩き、いとも簡単に操作するという、とてつもない世界が当たり前のように「もたらされた」という事は忘れてはならないと思う。
業種柄、このような「テクノロジーの変化」を考えるきっかけが少なくないのだがそんな時にいつも感じる違和感がある。周囲の景色だけがタイムマシンのように変わりゆく中、その他大勢の“人”だけが取り残されていくような不安とも言える感覚である。これら「もたらされた変化」は世の中が暴走的に進行しているだけであってその速度に果たして私たちは付いていけているのだろうか?もっと言うと「変えられている事」すら気づかずあたかも自分自身が変わったのかのように錯覚してはいないか?といったような違和感である。
これらテクノロジーの分野はあくまで一つの例であるが、こういった「関与する余地がないほど激変する世の中」と「変化する事を迫られた個」が普遍的な“時間”という同じ制限の中にある事が、現代社会の歪みを生んでいるのではと感じる事がある。
一般的な感覚なのかは分からないが「変わる」ということは時によって避けるべき、怖い事のように捉えられるが、日本人にとっては確かにそうなのかもしれない。「変人」「変態」「変なおじさん」まさに「変わる(変わっている)」ことは「へん(異常)」なのである。それは「変」という漢字の成り立ちからも見てとれ、象形文字では、左右にある「糸」の真ん中を“刃物を持った右手で断ち切っている”表現から作られたという。日本語において「変わる」ということは、今までのものを断ち切ってまでしてようやく「変わる」のである。
一方、冒頭であげた「Change」の語源はラテン語から派生した「Cambium」で「植物の形成層」を意味することから「新しい層を重ね変化していく」というニュアンスの「Change」が生まれたと言われている。植物の形成層の中心には絶対に変わらない「pith(髄)」すなわち“心髄”や“核心”が存在していることが条件であり何かを断ち切るのでなく層を重ねることで形成していく「変わる」である。これが「Change」に感じる日本語とは違う感覚の意味なのかもしれない。
久野塾ビジョン創造スクールに通った一年間はこのように強烈なまでに自問自答を繰り返し、「変わる」意味と必要性を問い続けた一年であった。社会へ出て10年、色々な役割を任せてもらったがそれなりに期待をされ、それなりに成果を出し、それなりに評価をされたとは思う。でもどこか納得が行かなかったのは「それなり」でしかなかったこと。
「それなり」ではなく、「自分なり」でなくてはならない。自分は何のために生き、そしてこのままでは旅立つ時に何が心残りになってしまうのか。ここで出た答えは、何かを断ち切って「変わる」ような怖さは一切無い。