小松 弘宜(Komatsu Hironori)

今、窓の外は一面の雪景色。気温は-8℃です。
数年前までは、生まれ故郷の札幌に住み、働くという未来を全く想像してませんでした。

2011年に神奈川に家を買い、子供も幼稚園に入り、俗に言う「老後」になったらなんとなく北海道に帰るのかなぁ、なんて。それで人生設計をした「つもり」になっていたのだと思います。

そんな「つもり」が、3年半前に大きく変わりました。転職と同時に北海道に移り、ほぼ同時に久野塾との縁が生まれました。当時、私の上席だった理事の吉田直哉さんから声をかけてもらい、久野「若」塾という大学生を中心とした若手対象の塾のサポートから始まり、久野闘塾を経て、今年から「久野塾北海道」と変わる北海道地区の運営事務局を担当してます。

あっというまの3年半です。

今、どういう想いで久野塾、そして久野塾北海道と関わっているのか、それは何故なのか。自分への備忘録も兼ねて記します。

北海道の会社に転職を決めたとき、よく「Uターン」「地元に戻る」という表現をされました。「あ、地元に戻るんだね」「Uターン転職なんだ」などなど。30代の後半を、人事の仕事の専門性を高めたい、その領域でマネジメントができて経営に近い会社で働きたい。

そういう想いで私は転職をしたので、別に北海道に帰りたかったわけではありませんでした。試験を受けて縁があった会社も、3社中2社が東京。残りの1社が今の会社です。地方都市で暮らすからといって、決して緩く生きる事と同義ではないのですが、どうやら都会生まれ都会育ちの方々にとっては、スローライフとか自分らしくとか、そういったイメージが強いようです。

確かに時々、東京で仕事をしていた時に得られる刺激との距離感を感じる事もあります。まず北海道では、東京で当たり前に受けられるサービスが普通に存在しない事が多い。Amazonも即日なんて来ないし、何なら中1日が当たり前。何のためにプライム会員になっているのか、よくわからなくなります。Uber Eats?何それ?って世界です。私もポチっとして自分のデスクでランチしたいです。

学習の面でもそうで、気軽に電車で講演を聞きに行くなんでできませんし、コミュニティも多くありません。自己投資の選択肢も少ないので、自然と「学び」への接点や危機感には乏しくなる風土。これが普通です。

特に悪気もなく、現状に疑問を持ちにくい環境。この知らぬ間に過ぎ去る「普通」を変えたい。地方にも、こういった価値のあるコミュニティがあることを証明したい。

久野塾北海道が「北海道の普通」に一石を投じる役割を担えると信じ、この想いが私の久野塾北海道への原動力となっています。

人材採用の仕事で、台北やバンコクに行くことが年に数回あります。行く度に感じるのは、街の、そしてそこで暮らす人々のエネルギーの高さ。学生たちも、日本の一般的な大学生は足元にも及ばない学びへの欲求、渇望があります。

特に萩でのセミナーに参加してから、このままこの「普通」が続いてしまったら、日本はどうなってしまうんだろう、という危機感を非常に強く持つようになりました。

実際、仕事の合間を縫って、今年5月から始まる久野塾北海道第3クールの営業活動をしていても、反応はあれども、参加までの意思表示はなかなかいただけません。

でも地道に拡げていきます。

久野塾も6名からのスタートだったと聞いていますし、この久野塾北海道というプラットフォームで、神田塾頭と一緒に、そして参加される皆さんと共に学びながら成長したいと思います。

最近では台湾の大学生向け「久野塾Taiwan」の実現に向けて、水深1,000mくらいの深さでひっそりと活動しています。ビジョン創造スクールや、ダイアログ塾がスタート地点ではない私にとっての、久野塾で学んだリーダーシップの発揮の仕方の一つです。手探りの状態ですが、なんとか実現にこぎつけます。

日本という国がある限り、地方も存在します。地方発で世界とつながる、俗に言うグローカルな活動が久野塾にあっても、多様性の一つとしていいですよね?(勝手に思ってるだけでしょうか 笑)

誰かからの期待された人生でなく、自分の人生を生きるために。「つもり」の人生設計を捨て、自分の軸を磨く場として。久野塾北海道、そして久野塾でアウトプットを続ける事を宣言し、ここに記します。