実存として生きていく
「実存は本質に先立つ」
フランスの哲学者サルトルのこの言葉は私の人生に最も大きな影響を与えた言葉かも知れない。
“お前の人生において本質は初めから或は外側から所与のものとしてあたえられてはいない、お前は自由で、従って今この瞬間も自ら選択しながら何者かになっていくのだ”。この言葉はパワフルに私にこのように迫ってくる。
そもそもヘブライズムとヘレニズムを文化的源流とするヨーロッパにおいても、実存主義は価値観の大転換を迫る。西洋哲学は結局のところプラトンが言うところのイデアからアリストテレスの形相、ヘーゲルの絶対精神に至るまで、普遍性と個別的なものの二元論の中で前者を本質として追い求めてきた学問と言える。本質とは詰まるところ絶対的存在としての神であり、西洋哲学はいわば合理的な神の存在証明であった。人間は個別の肉体の中に魂としての本質を当初から備える存在であった。
実存主義哲学は、個別の肉体としての、現実存在としての人間をその中心に置くことで、古代ギリシャから長い歴史を持つ魂中心の哲学を解体するものであった。
人類が哲学或は宗教を発展させてきた背景が、人間自身の存在の曖昧さ、不安定さを耐えかねる心理に発しており、従って神や不動の動者のような安定的で確実なものを追い求めてきたとすれば、実存主義は危険な考え方となる。サルトルが、人間は自由の刑に処せられている、と言ったように世界は途端に不安定なものとして映ることになる。
しかし同時に実存主義は、個々の人間が自分の人生を形作るのは宗教では無く国家でもない、ましてや親や会社の上司等の他人でも無い、自分の人生は自分自身が作っていくのだ、あらゆる選択肢を持つと言う意味で全ての人は平等だ、と力強く背中を押すのである。
私は元々世界史が好きで歴史を動かすドライバーは思想であると思うに至り、そこから宗教と哲学に興味を持った。宗教や哲学に関する概説書をその時々の興味に従い読みかじり、宗教、とりわけキリスト教の世界史における影響力が主要な関心となる中でサルトルに出会う。
その歴史的文脈の中におけるサルトルの主張は思想のイノベーションのように思えた。同時に、西洋人では無い自分にとっても、自分を変えていくための、自分が安住しているComfortable Zoneから抜け出すための勇気を与えてくれるものであった。
“無意識に自分を拘束している思想的束縛は無いか?”
“何か行動を起こすべき時にそれを不愉快だと思う民族的精神性は無いか?”
“自分自身で自己の行動を制約し変化を拒んでないか?”
自分自身を束縛するこのような要因は往々にして典型的日本人思考であったり、生まれ育ってきた中で両親から期待されてきた人物像であったりする。
30代半ばに単身中国に飛び込み事業を立ち上げた。
上海に8年も住んだ後に日本に戻りスイスの外資企業で働くことを決めた。
多国籍のビッグミーティングで力強くSpeak Upする。
人を好きになり愛する。ジェンダーを告白する。
小説家になる。政治家を目指す。ポルトガル語の勉強を始める。
キルギスに移り住む。故郷で母親と暮らす。
如何なる選択も自由である。人は選択をして自分が本質と考える何者かになっていく。